序 文
佐古純一郎
先年永井さんが、「母と子の世界の伝記」というシリーズの一冊と
して、子ども向けに書いた『キリスト』を読んで、私は大変感動した
ことをおぼえている。
それは小学校の低学年の子どもたちを対象とし
て書かれたものであったが、永井さんの「心」の中に生きているキリ
ストが、きわめてやさしい言葉で、しかもみごとなまでの鮮やかさで
描きだされていたことであった。
その永井さんが、このたびは、『わたしの心のイエス』と題して、
詩の形でイエスのお姿を私たちの前にあらわしてくれたのである。
「わたしの心を捉えたイエスは<史的イエス>ではなく、<詩的イエ
ス>でありました」と永井さんは"あとがき"に記しているのだが、
<詩的イエス>とは、まことにいい得て妙である。
永井さんの人格と
見識が躍動しているような表現である。
「史的イエス」論争にあけく
れているキリスト教界の動向に対する痛烈な批評ですらあるように私
には受け取れるのである。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしの
うちに生きておられるのである」(ガラテヤへの手紙)とパウロも
告白しているが、永井さんの全存在の内奥に、まさしく生きておられ
るイエス・キリストが、私たちの眼前に、描きだされた思いを禁じが
たい。
まるで幼な子のように純粋で単純な信仰でイエス・キリストを
信じ、いつもその内なるキリストと向かいあい、対話する孤独な祈り
の人、永井さんという人はそういう信徒なのだということを、このユ
ニークなイエス伝詩集はまざまざと証しているように思われる。