牧師の部屋

洗礼から聖餐へ

洗礼から聖餐へ


 日本基督教団が今日抱える問題のひとつに、「洗礼から聖餐への秩序が乱されている」という事柄があります。
 2009年5月に開催された関東教区総会で、「聖餐式の正しい執行に関する件」を有志の教師や信徒たちと一緒にわたしは提案することといたしました。「開かれた聖餐(フリー聖餐)」と称して、洗礼を受けていない人たち (未受洗者)に聖餐を与える教会やそのことに賛同を表す人たちがいくつもでてきているためです。
*オープン聖餐(洗礼を受けていればどの教派・教会に属するかを問わない)、クローズド聖餐(メソジスト教会などに見られる、 教派・教会を問うもの-当然ながら洗礼を受けて教会のメンバーになっていること)
*フリー聖餐を違法聖餐と言い換える場合があるようです。また、オープン聖餐と混同して使用している方もおられます。
*「聖餐」と「愛餐」は区別されるものです。

 フリー聖餐擁護者から、同じ礼拝に参加しながら、洗礼を受けていないという理由で、未受洗者を聖餐から閉め出すことは、排除の思想で、キリストの愛に反することだと聞きました。しかし、未受洗者を聖餐にあずからせることはキリストのあがないのみわざを安っぽい恵みにすり替えることであり、世々のキリスト教会が考えもしなかった事柄です。 また、このことは「なぜ、洗礼を受けるのか」についても、その意味をとても軽くすることになります。使徒パウロがローマの信徒への手紙11章14節で「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。」と語っている同胞の救いとは、聖餐にあずからせることではなくて、洗礼にあずからせたいのに違いありません。聖餐にあずかったら救われるのではなくて、洗礼にあずかって救われるのだからです。
 マタイによる福音書28章19節~20節にある「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という、主イエス・キリストの大宣教命令においても、教会にとって大切なことは「洗礼を授ける」ことなのです。
 使徒言行録8章26節~40節の「フィリポとエチオピアの高官」の中に、26節「道を進んで行くうちに、彼らは水のあるところに来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。』」と記されています。続く、同10章のコルネリウス物語では、46節「異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか』と言った」のです。そして、洗礼を受けるように命じたとあります。
 信仰に入る道を時間軸で辿ると、最初に来るのは洗礼であって、聖餐ではないのです。同2章40節~42節には「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい。』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」と記されています。この「パンを裂くこと」が聖餐式のこととすれば、洗礼を受けて仲間となった者たちが聖餐式をしていたと考えるのが自然な流れだと思うのです。
 神の義にかなって救いにあずかることができるのは、パンやブドウ酒(液)という物素をいただくことではなく、公の礼拝において信仰を告白し、洗礼を受けることなのです。もちろん、ヒューマニズムで救われるということは、聖書には認められていません。聖餐だけを取り上げるから、落とし穴に陥るのです。

 なぜ、フリー聖餐をするのかについて、さまざまに理由はあるのでしょうが、フリー聖餐をしている教会がその理由を明らかにしていないため、主張は十分に届いていないかもしれませんが、知りうるところから考えてみました。

*小栗献著「よくわかるキリスト教の礼拝」キリスト新聞社(2004年)のP.40「陪餐資格の問題について」で、4つの理由が述べられています。*この書籍は日本キリスト教団の信徒をターゲットに書かれたものではありません。
1.弟子たちは洗礼を受けていないのに、最後の晩餐で「配餐」を受けているではないか。小栗氏「イエスをまさに裏切ろうとしていたユダすら招かれていたことを考えれば、イエスは、礼拝に招かれたすべての人を食卓に招くと考えられる。」
*最後の晩餐は聖餐式の原点であって、「聖餐式」ではありませんし、礼拝式中の行為でもありません。その後、教会が聖餐式の規定を作ったので、「聖餐式」 が未受洗者にも開かれていた、という根拠にはなりません。
もちろん、小栗氏が言う「パプテスマを受けた人だけに聖餐を認めるということはイエス・キリストが定めたことではない。」ことはもちろんですが、すべての人に対して言われたのではなく、主イエスにその足を洗ってもらった弟子と呼ばれる人たちに対して行われたので、拡大解釈をしてはならない事柄です。
*ガリラヤ湖半のタプハでの、主イエスが五つのパンと二匹の魚をもって、5000人に分け与えられたときには、誰でも受けることができたではないかと考える方もいますが、これも「聖餐式」ではありませんから、根拠にはなりません。配ったものは「大麦パンと魚」で、ブドウ酒は登場しませんし。

2.小栗氏「聖餐を受けるために必要なことは、バプテスマの有無ではなく、信仰を持って受けるかどうかにかかっていると考えられる。」
 埼玉地区の教会で、かつて実際にあったことですが、礼拝参加者全員に配餐をし、未受洗者にも聖餐を受け取らせ、受け取らないときは、受け取るまで配餐者が未受洗者の前に立ち続けたというケースでは、当該教会員が困って、わたしに相談しに来たことがありました。
*教師の誤った理解とかたくなな主張は、未受洗者のみならず、教会員をも傷つけるのです。
 日本特有の課題として、礼拝者が少なく、その中に洗礼を受けていない人がいる場合、せっかく礼拝に来てくれたのに、「のけ者にしている」と思ったり、もしくは「のけ者にされている」と受け止められたりするのはかわいそうだ、教会の愛が問われるという、感情論があります。
*小栗氏「礼拝に出席しているということ自体がすでに信仰の表明になっていると言えるのではないか。また、様々な事情から、信仰を持っていても洗礼を受けることが困難な人もいる。」と言う。その人に本当に必要なのは聖餐を受けることなのでしょうか。
・聖餐式の前に、なぜこれをするのかについて、未受洗者に丁寧にお伝えすること。
・なぜ資格が問われるのかについて、説明をすること。それは差別ではなく、区別するためであること。したがって、未受洗者をのけ者にするためではないこと。教会の信仰を持たない人がまちがえて食べてしまっても、害にはならないが、効果は無いこと。おまじないになること。
・教会の信仰を持たない人がまちがえて食べてしまったら、とがめず、教会は信仰告白に導く努力をすることが必要です。その方が洗礼の恵みにあずかるように教会は祈り続けるべきこと。
・「洗礼を受けられる環境になく、状況が許してくれない。」という課題から、牧師が逃げないで、前向きに求道者と接すること。
まだまだ対応を考えることができるのではありませんか。
 当教会では、主日に3つの礼拝をささげていますが、聖餐式は毎月第1主日(シャローム礼拝と呼び、3つの礼拝に参加するすべての人が一つになって礼拝します)と三大祭りの礼拝で行っています。三大祭りの日には、聖餐式後、「教会の祝福」を受けたい方に、礼拝堂前方の聖餐卓の前に出てきていただき、一人ひとりの肩に手を置き、祝福をしています。祝福を受けた人々の中から、洗礼を受ける方が出てきます。 求道者が本当に必要としているのは、少しばかりのパンと小さな杯ではなくて、教会を通して与えられる「神の祝福」なのではありませんか。

3.小栗氏「洗礼を受けてから聖餐を受けるという方向だけでなく、聖餐を受けて、そこから洗礼へ導かれるという方向もあり得るのではないか。」というが、「あり得ないかも知れない」と考えることをしていないのでは不十分な考えに過ぎません。
 また、「礼拝の時、配餐する前にその信仰を確認し、イエスをキリストと信じること(信仰があること)を確認できたなら、聖餐を与えてよい。」という主張もあります。しかし、その信仰を確認する方法があまりにも主観的で、その基盤はぜい弱と考えます。

 信仰とは、自分があると思えばあり、ないと思えばないというような、わたしたちの気分的な感情や人間の側の判断に根拠を置くものではありません。ローマの信徒への手紙10章9節~10節にある「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」との言葉は、当時の教会において、洗礼入会式における信仰告白の言葉であったと伝えられています。
 信仰の有無は教会が決めることです。洗礼を受けるための準備を重ね、役員会や長老会の試問を受け、教会の持つ信仰告白をその人が告白することを確かめて、承認し、教団の場合、教会が正教師によって洗礼を授けさせるのですが、この一連の事柄が「その人に信仰があることを確認する こと」なのです。これを実行せずに、聖餐式中に個人に信仰の有無の判断を求めることは、はなから教会的な行為ではないことになります。

4.小栗氏「聖餐は神からの一方的な恵みであり、それに対して教会が制限を加えることは許されないのではないか。」と、ここでも「ではないか」と言って逃げていますが、「教会のサクラメントである洗礼」を受けることという条件は「人間による制限」なのか、「神のくださった秩序」なのか、考え方に乖離があります。聖礼典は「神が教会にお与えくださったサクラメント」なのではありませんか。未受洗者に、「洗礼を受けなくても、聖餐にあずかった者は天国に入れますよ。」と、教会は言うことができるのでしょうか。

東神戸教会のケースは信仰を個人の事柄にしてしまう事例です。http://www.higashikobech.org/reihai/reihai2.html
 聖餐式の説明の箇所です

 「教憲・教規の信徒の項には、聖餐を受けることができる信徒(陪餐会員)と受けることのできない信徒(未陪餐会員)の区別はあるけれど、洗礼を受けていない者は聖餐を受けることはできないとは書いていない。」という主張もあります。書いていないのだから、未受洗者に配餐してもかまわないという主張は、短絡的で幼稚な主張です。信徒以外の人が聖餐を受けるなどという時代が来ることを最初から想定していなかっただけのことです。
 日本国憲法には、「何人も殺人をしてはならない。」とは書いてありません。書いてあることは、刑法にある処罰規定(刑法199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」) があるだけです。
 殺してはいけないと書いていないのだから、罰を受けることを承知するならば、もしくは、逮捕されず逃げ切れる自信や根性があるならば、殺してもよいという主張は退けられなければなりません。なぜなら、憲法や法律を作ったのは、わたしたちが平和な社会で自由に生き続けることができるためだからです。そのことを否定することになる「殺人」はしてはいけないことなのは当たり前なのです。当たり前のことだから書く必要がないのです。

 また、「誰でも聖餐にあずかることができるのは世界の教会の潮流だ。」などと確かな根拠もないのに、主張する教師もいるのです。このことについては、埼玉地区の「2.11集会(2014年2月11日)」で講師の小海基教師からわたしが直接聞きました。その内容は、ご自分が訪れたドイツの一教会の体験に過ぎないのに、さもドイツ中でなされているかのように拡大解釈したものでした。
 しかしながら、世界の潮流などではありません。今まで、どの国の、どの教派の、いくつの教会でフリー聖餐をしているという、データを示せた人はいません。 もし 仮に、世界の潮流だとしても、それだからといって、日本基督教団がこれに迎合して、教憲教規を変更する必要が生じるというものでもありません。 現在の教憲・教規のままでは、フリー聖餐は認められることがないのです。
 水戸中央教会の山本牧師のブログ(2017年1月7日)に「2012年にドイツのゲッチンゲン大学神学部の隠退教授ヨヤキム・リンクレーベン先生がいらして、東京で講演をされたとき、この聖餐式に関する質問が会場から出ました。私たちの教団内では、もう解決の糸口の見つからなくなっているような込み入った議論がなされている問題ですが、彼は、本当に短く簡潔に答えてくださいました。 『洗礼も聖餐もサクラメントつまり、神によって定められた(儀式だ)。だから、人間が勝手にこちらはいただくが、あちらはいただかないなどと言うことはできない。受けるならば両方共だ』と明快に答えられました。」とありました。(山本先生は2019年3月末をもって当該教会を辞任されています)

 全国連合長老会の機関誌「宣教」の2008年7月号で、「聖餐の乱れについて」と題する東野尚志先生の「主張」が残されています。
 いわゆる「未受洗者陪餐」の問題は、昨年(中村註:2007年)一〇月、教団常議員会による「教師退任勧告」によって、ようやく、公の場で取り上げられる議論となった。以前から、そのような主張や噂は多く聞かれたが、個教会の実践に関わることであるだけに、その実態はあまり外には見えてこなかった。そして、表立って語られることのないままに、教会の信仰の根幹を蝕み、福音を空洞化させる恐るべき病は、ひそかに進行してきたのである。
 「オープン」「フリー」という言い方で誤魔化されないように、最近は「違法聖餐」と呼ばれることも多い。形式的に言えば、日本基督教団がどのような教会であるかを自己規定しているのが信仰告白と教憲教規であり、さまざまな教派的な背景を持つ教会が、合同教会として一つの形を造り上げていくための基礎また要になるものである。この点で一致していればこそ、多様な広がりをもつことも可能になる。戦時中はともかく、戦後の教団は、決して、強制的に一致させられているわけではない。どうしても、この一致の要を共有できないのであれば、新しい教団を造ればよいのである。それを妨げるものは地上には存在しない。
 しかし、「聖餐の乱れ」は、ただ形式的な「違反」「違法」ということでは片付けられない深刻な信仰的問題をはらんでいる。「聖餐」が教会にとって、また信仰者にとってどのような意味をもつのかということについての信仰と理解が崩れているからである。個教会の実践において、「聖餐」の内実が失われているからこそ、「愛餐」との境が曖昧になり、さらには「洗礼」の恵みもないがしろにされてしまうのだと思う。
 確かに、求道者と呼ばれた時代を思い起こせば、一緒に礼拝に出て説教を聴いているのに、聖餐にはあずかれないことで、寂しさを覚えたのは事実である。しかし、だからこそ、洗礼を受けて、初めの聖餐にあずかった感激は忘れがたい。「未受洗者陪餐」は、求道者からこの恵みの体験の機会を奪うものであり、これに与する教師たち自身が、もはや聖餐の秘義と恵みの内実に対する畏れを失っているのではないかと思う。
 もちろん、「未受洗者陪餐」に踏み切る教会には、それぞれの抱えている課題や事情があるに違いない。しかし中には、「聖餐」という呼び方で「聖」と「俗」を分けようとする考え方が差別を生み出す、という主張まである。本来、「聖」とは、ただ神にのみ帰せられる言葉であり、神とのつながりの中で、神によって用いられるものに「聖」の名が付される。「聖書」「聖餐」「聖なる教会」、いずれもそうである。「聖餐」を解体することは、聖書の権威を否定し、教会を解体しようとする動きと歩みを共にしているのだと思う。神とのつながりを失った教会は、世俗社会の中に埋没して、もはや「地の塩」でも「世の光」でもなくなってしまうであろう。
 一年ほど前から、「未受洗者陪餐」を実践する教会で役員を務めたこともある人が、鎌倉雪ノ下教会の礼拝に続けて出席しておられる。話を聞いてみると、聖餐が「開かれている」かどうかということに、あまりこだわりはないという。受ける側がきちんと信仰をもって受ければよいという考えらしい。むしろ問題は、説教だというのである。社会問題についての評論ばかり聞かされて、少しも福音が聞こえない。ついに耐えられなくなって、福音を求める旅に出たのだという。確かに、福音主義教会の標識は、「説教と聖礼典」である。聖餐の乱れは、福音の説教の空洞化から来ていると言っても過言ではないと思う。
 礼拝の説教において、十字架の罪の赦しの福音が説かれず、それ故に、真の悔い改めと共に、復活の主の現臨にあずかることもない。そこに病の根があるのだと思う。社会問題にのみ目を向けたり、あるがままをよしとするだけの説教が、福音を空洞化させ、洗礼を単なる個人の決断、聖餐を人間的な交わりのしるしにおとしめてしまう。そのようにして、人間中心の「教会」から、罪人を義人として新しく生まれさせる聖霊の働きが閉め出されているのである。聖餐の乱れは、「主の教会」としての命を蝕む深刻な病の現れである。この点での妥協は、教会にとって、まさに、命取りとなるであろう。
鎌倉雪ノ下教会牧師 東野 尚志(中村註:元鎌倉雪ノ下教会牧師)

 教会の歴史を少しばかり学ぶだけでも、洗礼から聖餐という流れが教会の本来的なものであることが分かります。紀元1世紀末から2世紀初めにシリア・パレスチナ地方で書かれたとされる「ディダケー(十二使徒を通して諸国の民に与えられた主の教え)」 の第9章には、「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。」と書かれています。 また、2世紀初めに活動した、ユスティノスの著作である「第一弁証論」において、聖餐に参加できない人に「感謝の祈りをささげられたもの」(パンとぶどう酒)を運ぶ役割が 紀元2世紀の教会にすでにあったことを記し、信徒たちの暖かな交わりの様子を伝えています。
 3世紀初め、ローマで司祭をしていたヒュッポリトスに由来する「使徒伝承」にも、「求道者は主の晩餐にあずかれない」と記されています。

 わたしたちは礼拝をささげる共同体としてこの世に存在しています。その礼拝の固定化や絶対化は避けなければなりませんが、洗礼を受けている者と受けていない者とがうまくやっていけるように、自分たちの都合や好みに合わせて教会を変えようとすることには、慎重に対応する必要があるのです。教会生活を続けていると、さまざまな「よい考え」がひらめくことがあるかもしれませんが、教会が2000年の間培ってきたことを越えてしまう「思いつき」こそ、きちんと排除されなければなりません。 ラインホルド・ニーバーの言葉を思い起こします。
「神よ変えることのできるものについて、
 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
 変えることのできないものについては、
 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
  識別する知恵を与えたまえ。」

 2009年の関東教区総会後、この議案について、総会に出席した議員だけのことにせず、すべての教会の教師や信徒にも知っていただこうと、有志が集まって、Q&Aを作成することにいたしました。それが「聖餐の正しい執行についてQ&A」(聖餐の正しい執行を求める会編)です。 *「聖餐の正しい執行についてQ&A」(ダウンロードできます)

 「わたしたちの教会はフリー聖餐をしていません。」という牧師の声は聞きますが、「わたしたちの教会はフリー聖餐をしています。」という牧師はわたしの周りにはおよそいません。 それでも、フリー聖餐をしている教会はあるのです。わたしが知り得たところをここに載せます。(事実と異なっていたらお教えください) 

*「フリー聖餐」をしているという教会
 紅葉坂教会、竜ケ崎教会、新潟教会、東神戸教会、 船越教会、豊島岡教会、生田教会、はりま平安教会、小平学園教会、徳島北教会

*「フリー聖餐」をしていると主張している教会 西宮公同教会
 ブログ(2010年10月01週)において、
 「西宮公同教会の牧師は、正教師ではなくて補教師(正教師試験を受験しない)です。なのに、未受洗者への配餐などを行っていますから、その「本教団の秩序を著しく乱す行為」は “免職”に値するのはもちろんです。それらのことを無視して今日まで来たということではなく、キリスト教の世界に生きて結果的に立ち続けた位置がそうだった、というのが理由です。そうして正式ではない牧師をしていて、本人はそのことで困るということはありません。牧師という資格(ほかのいかなる資格も含め・・・)で生きたことはないという意味では困りませんでした。かつて、西宮公同幼稚園を卒園する子どもの就学のことで、近くの小学校の教頭と交渉していて『・・・それでも牧師か!』とどなられたりもしましたが、『それでも教師か!』と言い返しておきました。補教師はもちろん、教師の未受洗者への配餐16世紀だったら間違いなく“火刑”でしょうが、21世紀では悪くいっても“免職”です。ですから、これからも補教師で、更に、未受洗者にも、拒まれない限りは、配餐を続けることにします。(長文に付き一部抜き書き)」と書いています。
 ところが、文章をよく読んでみると、正教師資格を持たない補教師なのに、自らを「伝道師ではなく、牧師(正教師資格を持ち各個教会の担任教師として現役で働いている場合に使用できる呼び方)」と言い、聖餐式ではなく、「フリー聖餐」以前の、聖餐式もどきの行為をして、さも聖餐式をしているかのように教会員と未受洗者をだましている詐欺行為をしているだけの話でした。教会にとって、とても残念で不幸なことです。 「補教師は聖餐式を行うことができない 」ということは、補教師に限らず信徒でも「やってしまえばできること」なのではなくて、正教師が行うものが「聖餐式」であることに気付いていないのです。誰でも書店で購入することのできる「式文」を使用すれば、「聖餐式」を行うことができると考えることは軽率で短絡的な思考に過ぎません。 日本基督教団で補教師のままで居続ける意味はありません。教師検定試験ぐらい受けても恥にはなりませんし、ぜひ受験していただき、按手を受けて正教師となり、教会のみなさんにそれまでの無知と過ちとをしっかりお詫びして、本当の聖餐式を執行していただきたいです。
*これも、教師の誤った理解とかたくなな主張は未受洗者のみならず、教会員をも傷つけることになるのです。
*補教師の成立は、教団創設時に「教師補」の制度を持っていた教派の教会との一致のために苦慮して作られたもので、いつまでも引きずる必要はないと思っています。昨今は、学校の教員免許は10年ごとに更新することになっていますから、更新試験のない教師ですから、2度の試験があっても良いとも思いますが。

追加1
 日本基督教団の常議員会という教憲教規を守る最高の責任を負うところの議員が、何度も「フリー聖餐は教憲教規に違反するので、止めましょうね」と悔い改めることを求められていたのに、 1995年~2005年までの10年間もフリー聖餐をし続けたために、とうとう5年後の2010年に免職処分相当と判断され、教師資格を剥奪されました。 紅葉坂教会の北村慈郎元牧師でした。
 その教会では、3年も会議を重ねて、教会規則の8条の「聖餐には洗礼を受けた信徒があずかる」という文言を削除しました。この規則変更は教団で承認されず、突き返されてきたのですが、「その後、教団は何も言ってきませんでしたので、そのまま時がたっていきました。」と、ご自身が書いていますが、「突き返された」 ということは、教団では教会のその考え方は認められないとか、変更してはならないことなのだ、ということを考えることはしなかったようです。
 当の本人は、ご自分が教憲教規違反をし続けてきた非を認めて反省することをしないばかりか、自分の利益を得るために免職の撤回を求めています。 執行部の手続きが不正であると言って、裁判まで起こし、最高裁判所において敗訴しています。規則を守らないものが規則を盾に自身の正しさを主張することは筋が通りません。支援する人たちが、高等裁判所において認められなかった案件が最高裁でひっくり返せる可能性はごくごく低いことを教えてあげられる人はいなかったのでしょうか。そもそも宗教法人内の問題に司法が介入しないことこそ日本の良識であるのに、裁判に持ち出すことはすでに負けなのです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章4節~7節)
 常議員会での「記録を残さない」という条件の場所だから、フリー聖餐のレポートをしたのに、そこで語ったことがらから違反宣告をするとは、だまし討ちだとも言っておられますが、遅かれ早かれ、隠し事は明らかになるものです。 少しでも「まずいことをしている」という認識があったのなら、対処の仕方は異なったはずです。ほどほどにしなさいと諫めてくれる人は周りにいないのでしょうね。
 1人の教師の教師籍の剥奪(免職)は、人権問題だと主張し、支持する方がおられます。でも、何を支援しているのでしょうか。
 運転免許・規則(道路交通法)という法制度の中でわたしたちは暮らしています。取り締まる警察官がいないところで、スピード違反や一時停止違反などを繰り返していても、どうということはないでしょうが、何度も取り締まりに引っかかったら、いや一度だけの違反であっても(わたしの場合です。(^^ゞ)、免許停止や免許の取り消し処分を受けることになります。 そうなると、車を運転することができなくなります。それがために、仕事にどれほど支障が出ようと、これに対して「人権侵害だ」と叫ぶ人はいません。「他の人も同じ事をやっているではないか」と言っても、処分を免れることはできません。仮に、「人権侵害だ」と叫んだとしても、誰も支持してはくれません。 「今まで何も言われなかったのに、取り締まりが急に厳しくなった。」という、抗議も当然ながら受け付けられません。  「シートベルトをしないことはわたしの自由だ。生き方だ。」と言っても、それで罰則規定から免除されるわけでもありません。
 違反は、自分だけの範囲に留まらず、周りの人々にも迷惑を及ぼすことを考える必要があります。
 違反をしなければ、し続けなければ良かっただけのことです。 通常は、違反をしたことを反省して、高額な罰金を支払うために銀行の窓口に恥ずかしい思いを抱えながら行くのです。そして、講習を受けるなどをして、 運転免許証再取得への道を進むのです。
 これは一般人のことですが、警察の最高幹部が同様なことをし続けたら、かつての警察組織ならもみ消しができたとしても、現在は、むしろ厳しく処罰されるはずです。 1700ある教会や伝道所の一牧師が若気の至りでしていることと、30人で組織される教団TOPの常議員会のいい大人のメンバーが繰り返しすることとはやはり責任の重さが異な ります。
 教師資格の剥奪とは、日本基督教団の教会で教規に違反するフリー聖餐をし続けるのは教師として相応しくないので、教師と認めた資格をお返しいただくという判断がなされたということです。 当然のことながら、一個人が神から受けた召命を否定することになるわけではありません。教団の教師とは認められないだけのことなのです。その意味でも「人権侵害」と呼ぶ 事柄ではありません。
 日本基督教団外での働きについてまで云々されるわけではありませんから、単立教会やフリー聖餐を教規で定めている教派の教会で働くことや、開拓伝道をすることに 、なんら妨げとなることはないはずです。
 自分が不当に扱われていると叫ぶことはあっても、「みなさんにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」と言わない現状で、何をどう支援するというのでしょう。

追加2
 2014年5月に開催された関東教区総会で、「聖餐についての議論の場を設定して欲しい」という議案が提出されましたが、反対者のほうが多く否決されました。
 「開かれた対話ができる日本基督教団であって欲しい」という要望は、一見正しいようでありますが、その対話の課題と中身が問題なのです。洗礼を受けていない人には聖餐に与らせないことと 、洗礼を受けていない人に聖餐に与らせることとは、足して2で割ることなどできません。どちらかを選ぶことになるのです。
 どんなに議論を重ねたとしても、洗礼を受けていない人に聖餐を受ける道を与えることをわたしは受け入れることはできません。それを認めたら、これまでの当教会の76年の伝道の歴史や信仰の先達たち、現在の教会員たちを侮辱することになりますし、教会が語ってきたことを否定することにもなってしまいます。
 そもそも、日本基督教団の教師になる時に、「教憲教規を守ること」を誓約したのですから、それを反故にするぐらいなら、日本基督教団を出て自由に振る舞えば良いのです。
*なんと、教団の教師になる時に、「教憲教規を守ること」を誓約させていない教区が複数あることを知りました。あぁ (2016年2月8日)

追加3
 2014年の教団総会3日目に行われた「聖餐礼拝」で、説教者が、『大きなことには一致、小さなことには自由、すべてのことには愛。』と、リチャード・バクスター氏の言葉を引用されましたが、「洗礼から聖餐へ」という事柄は、各教会で自由に判断できる「小さなこと」ではありません。一致すべき「大きなこと」なのです。 教会は教会規則を持っていますが、その文言を修正したり、条文を削除したりすれば、それでフリー聖餐をすることができると考えている教会があるのですが、決してそのようにはなりません。 日本基督教団は包括宗教法人(参考:宗教法人法第2条の第2号に該当)なので、所属する各個教会はその教憲教規の下に置かれる被包括宗教法人となっています。仮に、教会総会を開催して、教会規則を自分たちの主義主張に基づいて変えても、日本基督教団で承認されなければ、その改変は無効となります。
 日本基督教団がきちんと節度を持って審査していることに敬意を表します。
 宗教法人法では、被包括宗教法人である教会が、その包括宗教法人から独立して単立宗教法人となることもできることになっています。
 教憲教規を変えることをせずに、フリー聖餐という行動だけを先行させることは、いかがなものでょう。趣味の世界の小さな同好会の規約ではないのです。大きな事に一致しなければ、混乱を長引かせることに寄与するだけなのです。

追加4
 2018年9月埼玉地区社会委員会発行の「埼玉の夜明け」に当該委員会の本間一秀委員長が、懲りずに、この件について触れています。
 「数年前、某教師が為していた礼典行為が教憲教規違反に相当とされ、当該教師が「免職」とされた。しかし、その件について本人から何の「意見、事情」の聞き取り調査が為されず、「意見陳述」をする機会も与えられず、また教区、同師が牧会する教会の要請も聞き入れられず、一方的に教団当局から「免職」とされたのである。 当該教師は不服の念から教規の定める「戒規施行細則」第六条により、不服審判を求めたが、事実確認、聞き取り調査等が為されないまま、審判委員の三対二の採決で棄却され免職が決定されてしまったのである。「教団退職年金」の支給もされていないのである。当該教職は民事訴訟を起こしたが、「宗教問題に関しては審理出来ない」すなわち、「宗教への司法介入は出来ない」との理由から棄却された。 この「免職」は明らかに日本国憲法に定められた、基本的人権の尊重の侵害、すなわち、人権侵害であり、社会通念を逸脱していることは明らかである。教団総会には「免職撤回を求める件」の類の議案が出され、正しい、公平な審理が求められて来たが「審議未了廃案」とされて審議されておらず、また教団議長の「取り上げない」との一方的な権力行使の犠牲とされて来ているのである。」と、相変わらずの論調でご自分の考えの正当性を主張しておられます。
 日本国憲法の第十三条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」を引き合いに出されているのですが、「個人としての国民の権利」に該当しない事柄だから、最高裁判所は「宗教法人の一団体の事柄に過ぎないから、自分たちで処理しなさい。」と判断したということをきちんと受け止める必要があります。 企業や団体の中で規則違反により解雇された場合、人権問題とはいわれません。また、普通退職ではないのですから、年金が支払われないのは当然のことです。
 さらに、解決策として「内部統制の為の施策が急務ではないか。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。」と言われる主イエスのみ言葉、聖書に聞きたいものである。」と書かれました。日本基督教団執行部から、「聖礼典で一致しよう」と言われても、一致する気のない人が「内部統制」などという危険な言葉を使用して欲しくありません。 また、社会委員会の委員長として、落ち着いたとらえ方が出来ず、自分の言い分が通らないからといって、その不満を「地区通信」という、埼玉地区が公に向けて発行する媒体を使用して欲しくありません。