牧師の部屋

永井明著「詩的イエス」

銀貨一枚

た たいへんだ……と
あわて者のペテロが
昼寝のイエスを起こした
寝ざめのいいイエスは
あくびひとつせず
すらりと起きあがり
すずしい眼で
ペテロを見た

た たいへんです
神殿の税金をとりにきました
税金? 納めたらいいだろ
いいだろ……って 先生
おかねが……と 横目で
ペテロは ユダを見た
そう そのとおり
先生は税金なんか納める必要は
ありませんよ と
ユダは、片時も肌身はなさぬ金袋を
両手でしっかりと
握りしめた

まあ そういうな
ほしがっているなら
やろうじゃないか
おいペテロ
おまえ つりざおをもって
ガリラヤ湖へ行ってこい

そして 最初につった魚のくちを
あけてみろ
銀貨が一枚とびだす

へい
つりざおを肩に
ペテロはとびだした
おい ペテロ
と トマスがよびとめた
おまえ ほんとに
つりに行く気かい? やめな
やめな あんなこと
本気にするやつがあるかい
先生も ときどき
ふざけるから困るよ
ペテロは
そんなトマスの言葉など無視して
ガリラヤ湖へ出かけた
湖は荒れていた
風が吹くたびに
大波がたった
ペテロは漁師だった
こんな日に
魚がつれるわけのないことは
だれよりも承知していた
が 彼は湖に糸をたれた

ペテロには一年半前の体験があった
あのときは さわやかな夏の朝だった
鏡のように澄んだ しずかな湖で
ペテロは その前夜
仲間といっしょに
夜通し綱をはったのに
小魚一びきもかからなかったのだった
意気あがらず
美しい湖上の朝焼けも眼にはいらず
あくびを連発しながら
立ちあがるのもおっくうで
渚に坐りんだまま
藻屑のついた網のやぶれを
つくろっていると
あの人
イエスがやってきたのだった
どうしたんだね
こんなにいい朝なのに
くたびれた頗をしてるね? と
あの人は声をかけてきた

そりゃあ わしら 昨夜
よっぴて 漁をして
一睡もしなかったからです
大漁ででもあれば疲れも吹っとびますが
小魚一ぴきとれなかったんだからねえ
こんなことは
漁師になってはじめてのことだよ

すると あの人はいったのだった
そうがっかりせんで 沖へ出て
もう一度 網をおろしてごらん

その言葉をきいたとき
わしは 心の底で
ふんがいしたな
このとうしろうめ なにをいうかと
腕っききの漁師のわしらが
根かぎりの経験を生かして
よっぴて努力したあげくのはてが
このありさまだったんだよ
自分の家の庭のように
ガリラヤ湖のことは
すみからすみまで承知している
わしらにむかって
指図をするなんて!

だが
あの人の言葉には権威があった
心の中ではいまいましく思いながら
もう一度 沖へ出ないでは
いられぬものがあった

そして あの大漁だ
魚どころか人を漁る漁師にしてくれた
あの人
あのときから わしは
自分の経験や知恵より
あの人の言葉を
信しるようになったのだ

だから ペテロは
つめたい風に吹きさらされながら
荒れる湖水に
じっと糸をたれていた
必ずつれるという
確信があった

日が暮れてきた
人影のないガリラヤ湖だった
あれっ まだここにいたのかい
いいかげんにやめろよ と
トマスがひやかしにやってきた
そのときだった
三時間も
ぴくともしなかった浮きが動いた
瞬間 銀色のうろこが
空中におどった

ペテロの太いふしくれだった指が
小さな魚のくちから
器用にはりをぬきとった
とたん
銀貨がころりととびだした

ペテロは にこりともしなかった
がっしりと大きな掌に
銀貨をにぎりしめ
つりざおをほっぽりだして
いちもくさんに
税吏の家めざして
駆け出した

トマスは
目をしろくろ
声も出なかった

(マタイによる福音書17・23~28)