3月22日(3/9)

 

行程 死海周辺 (マサダ、クムラン、エン・ゲディと死海浮遊)

死海のイスロテル・ガニム・ホテルで朝を迎えました。(4つ★ランクでした)

朝食後、8:30出発。

バスの中で、詩篇87編を読み、祈って出発しました。

 

最初の訪問地はマサダです。

マサダ(ヘブライ語: מצדה‎、英語:Masada)とは、イスラエル東部、死海西岸近くにある古代ローマユダヤ属州時代の要塞の遺跡である。「マサダ」とはヘブライ語で「要塞」を意味する。
ユダヤ戦争の末期、ローマ軍の包囲に対しユダヤ人の籠城軍が2年にわたり抵抗し、守備隊の悲劇的な集団自決で幕をおろした戦いの古戦場として知られる。

紀元前120年頃に要塞が建設され、後にヘロデ大王が離宮兼要塞として改修した。周囲は切り立った崖で、難攻不落と言われた。
66年にローマ帝国との戦争が始まり(ユダヤ戦争)、70年のティトゥス率いるローマ軍によってエルサレムが陥落した(エルサレム攻囲戦)後、熱心党員を中心としたユダヤ人967人がエルアザル・ベン・ヤイルに率いられてマサダに籠城する。
1万5千のローマ軍団が周囲を包囲したが、さすがのローマ軍も、攻撃軍を寄せ付けないマサダの峻厳な地形に攻めあぐねる。やがてローマ軍はイスラエルの捕虜と奴隷を大量動員して、土を運び崖を埋め、防壁を乗り越える突入口の建設を開始する。ユダヤ兵は執拗に防戦したが、城壁は日々着実に埋められ、やがて陥落は目前となった。敗北が確実となったある日、指導者たちは集まって、今後の方針を協議した。抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが当時の習慣であった。
73年、ローマ軍部隊は完成した侵入路を通り、ついに城内に突入する。ローマ兵は死にもの狂いの抵抗を予想していたが、意外にも防戦する者は1人もいなかった。突入の前夜に、奴隷となるより死をと、籠城軍は全員が集団自決していたのであった。ただ、隠れていた2人の女と5人の子供だけが生きのびたと伝えられる。
マサダ陥落によってユダヤ戦争は終結した。陥落後のマサダはローマ軍により徹底破壊され、長い間その所在が分からなくなっていたが、1838年にドイツ人考古学者によって所在が確認された。

マサダはその歴史的経緯から、現在もユダヤ人にとって特別な場所である。イスラエル国防軍はマサダ頂上で将校団の入隊宣誓式を実施し、民族滅亡の悲劇を再び繰り返してはならないと誓う。山頂は人気の観光地となっており、観光用のロープウェイが整備されている。

 

クムランです。クムランの人々が修道院生活をしながら、ユダヤ教の聖書「タナハ」の写本をたくさん残したところです。

死海北西端の沿岸から約1kmにある遺跡で、ユダ王朝時代(前7〜前6世紀)に要塞が築かれた〈塩の町〉(《ヨシュア記》15:62)と同定されている。この遺跡が急に有名になったのは、1947年にこの近くの洞穴から紀元前に書かれた完全な《イザヤ書》巻物写本が発見され、その後次々に同種の古代写本が周辺の洞穴群から発見されたからである。1951‐56年に,古い要塞の跡からこれら古代写本の所有者と思われる共同体の大きな建物の全構造が明らかにされた。

死海文書が発見されたクムラン周辺の洞窟群には発見順に番号がつけられている。第4洞窟と第7〜9洞窟はクムランに非常に近いが、第1、第3、第11洞窟はクムランから遠い場所にある。クムラン周辺には100以上の洞窟があるが、写本が発見された洞窟は全部で11である。以下に概要とそこからの出土品を示す。 死海文書には断片にいたるまでほとんどすべてに整理記号がつけられている。たとえば「1QIsaa」とあれば、「クムランの第一洞窟 (1Q)」から出土した「イザヤ書 (Isa)」の「一つ目 (a)」という意味である。断片には整理番号がつけられている。たとえば「1QGen」(クムラン第一洞窟から出た創世記断片)は「1Q1」でもある。

写真は第四洞窟です。

1952年8月に発見され、9月22日〜29日に調査された。クムラン遺跡から見えるほど近く、クムランの洞窟群の中でもっとも多くの写本が発見された。洞窟内部は二つに仕切られていたが、写本はどちらから出てきたかわからないものもあるので基本的に「4Q」を付す。第4洞窟からは15000の断片が発見され、500の写本が再構成された。その中には9-10部の『ヨベル書』、21のテフィリン (tefillin)、7部のメズゾット (mezuzot) が含まれていた。

 

昼食は、死海北端にあるクムラン・カリヤビーチで。2006年の旅で利用した店でした。

右下のビーチでは死海浮遊を楽しんでいました。

 

ホテルに戻ってから、死海のビーチへ。

死海(しかい、アラビア語: البحر الميت‎‎, ヘブライ語: יָם הַ‏‏מֶּ‏‏לַ‏ח‎‎‎)は、アラビア半島北西部に位置する塩湖。西側にイスラエル、東側をヨルダンに接する。湖面の海抜はマイナス418mと、地表で最も低い場所である。聖書には「塩の海」「アラバの海」、「東の海」として登場する。歴史的に様々な名前で呼ばれたが、現在の英語名 (The Dead Sea) はアラビア語名に由来する。
 

入った時は冷たく感じますが、水に慣れると快適です。

土産物店で買って用意していた「泥パック」を使用して、記念写真です。あは。

 

本日の歩数は11966歩。