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エジプト・イスラエル旅行 イスラエル編(エルサレム 2)

 第7日、ヨハネ誕生教会>アインカレム>エルサレム>ギホンの泉>シロアムの池>嘆きの壁>ローマンレストラン>バーントハウス>イスラエル博物館>ホテル

 この朝は、安息日が続いていて町はとても静かでした。シナゴーグの礼拝(サハリット)に行く、黒服のユダヤ人男性を多く見ました。

 アインカレムに行く途中の風景です。アインカレムとは「ブドウ畑の泉」という意味です。エルサレムの西にあり、芸術家の住む町で、洗礼者ヨハネの出生地として知られています。

バプテスマのヨハネの誕生教会「聖ヨハネ教会」

 聖ヨハネ教会(Church of St.Johan)は、バプテスマのヨハネの出生場所で、父ザカリアの家があった洞窟の上に建てられている。5世紀に建てられた跡に、十字軍が再建したが、また破壊され、1675年に フランチェスコ派が現教会堂を建てた。1855年に再建されている。主祭壇はヨハネを、右祭壇は母エリサベトが記念されている。左にある小階段はヨハネの生まれた洞窟に通じている。

 教会入口の壁面に、ザカリアの預言(ルカ1:67−80)が、各国の言葉で書かれている。もちろん日本語もあった。

 聖ヨハネ教会の脇の庭で、棕櫚の主日礼拝をしました。私は主イエスのエルサレム入城の時に子ロバが用いられたことから説教をしました。(ルカ19:28−36)

アインカレム(マリア訪問教会)

 マリア訪問教会(Church of Visitation)は、マリアがヨハネの母エリサベトを訪問したことを記念して建てられた。(ルカ1:39−56)

エルサレム第2神殿の1/50の模型

 エルサレム新市街の「ホーリーランドホテル」の中庭に、アビ・ヨナ考古学博士の作で、ヨセフスの「ユダヤ戦記」を参考に、エルサレム石を用いた、エルサレム第2神殿の1/50の模型があった。主イエスの時代にヘロデが建設した当時の町並みが再現されている。サドカイ派の人々が住む高台、一般人の住む低地と、はっきりと区分けされていた。ガイドのバラさんが示しているのは、シロアムの池だったと思う。(^^ゞ上方が神殿。

シロアムの池

 アラブ地区にある「ギホンの泉」(ソロモンが油注がれて王として即位した場所)と、そこから水路(ヒゼキアのトンネル−BC700年に、アッシリアの攻撃に備えて、ヒゼキア王が城の外側にあるギホンの泉からシロアムの池までの約540メートルのトンネルを掘らせたもの)でつながる「シロアムの池」に行きました。

 主イエスが盲人をいやした泉。135年にキリスト教徒によって掘り出され、5世紀に教会堂が建てられたが、614年にペルシャ人に破壊され、以降再建されていない。左の階段はヘロデが建造したもの。写真を撮っている側が、ヒゼキアのトンネルの終点。次にここを訪問するときには、ヒゼキアのトンネルの中を歩いてみたい。

エル・アクサ寺院

 エル・アクサ寺院。エル・アクサとはコーランに出てくる「遠隔地」を意味し、メッカ、メジナについで重要な場所。イスラエル第3の王ソロモンが7年かけて建築した荘厳な神殿はここに建てられていた。

 城壁左に突起している石は、1836年に英国のロビンソンによって発見された、神殿と上町をつなぐアーチ橋(ロビンソンアーチ)と呼ばれるの跡といわれたが、最近の調査では、上町にではなく、屈曲して下の道につながっていただけと判明している。

西の壁(嘆きの壁)で祈るユダヤ人

 「西の壁(Western Wall)」。ソロモンが神殿を拡げて石の門で周囲を囲んだ。ヘロデがそれを拡張したが、その一部が「西の壁」で、現代のユダヤ人の聖地となっている。AD70年にティトス帝によって神殿が破壊され、以降、ユダヤ人は世界に離散する(ディアスポラ)が、ユダヤ人はこの壁に向かって祈るようになった。石の壁には露がつき、「嘆きの壁(Wailing Wall)」といわれるようになった。*ライブカメラが設置されました。

嘆きの壁は男女に分けられている

 壁は、木の柵で男(左側・南)女(右側・北)に分けられている。男は頭に「帽子(キッパ)」をかぶらないと壁に近づくことはできない。紙製のキッパを借りることができる。

嘆きの壁(西の壁)を背景にして

 記念撮影後、ローマ式の食事をさせるレストランへ行きました。主イエスも弟子たちとの食事は、このローマンスタイルであったはず。コの字を90度左に回転させた、門型にテーブルが配置され、テーブルの外側に客が座り、内側から給仕されるという、きわめて合理的なもの。おどろいたのは、中央が上座と思ったら、そうではなく、左から2番目が主人の席とのこと。その両側に主賓もしくは客人が座るのだそうだ。

 レストランの近くで、ほんのわずかの時間ショッピングをする。

 次は、ユダヤ地区の「焼けた家(バーンド・ハウス)」へ。ここはティトス帝による破壊の跡。

 最後は、国会議事堂(クネセット)脇を通って、イスラエル博物館へ。

死海写本館

 博物館は、死海文書聖堂、聖書考古学博物館、民族博物館、美術館、童話館、ビリーローズ芸術庭園(野口 勇氏の設計)の施設で構成されている。私たちは「死海文書聖堂」に入った。ここには、世界最古のクムラン教団の死海写本(BC2世紀の死海文書、イザヤ書66巻を展示)や、バルコクバの手紙、クムラン教団の日用品が展示されている。中央の帽子のような形の建物は、死海写本が収められていたツボの蓋を模したものです。

 本日の旅の総歩数は、13400歩。


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