慶長初年(1596年)、長崎に住みキリシタンとなるが、迫害によって五島列島宇久島に逃れ、ここで洗礼を受け、寿庵と名乗り五島氏に改名する。寿庵とは洗礼者ヨハネの意。
慶長16年(1611年)、京都の商人田中勝介と知り合い、その推薦によって、支倉常長を通じて伊達政宗に仕える。
慶長17年(1612年)、後藤信康の義弟として、見分村(岩手県奥州市)1200石を給される。寿庵は原野だった見分村を開墾しようと、大規模な用水路を造った。これが「寿庵堰」であり、現在もその跡が残る。
大坂冬の陣・夏の陣では、伊達政宗の配下として鉄砲隊の隊長を務めた。
寿庵は熱心なキリシタン領主であり、天主堂・マリア堂などを建てた。家臣らのほとんどが信徒となり、全国から宣教師や信徒がその地に訪れたという。慶長17年から元和9年には、キリシタン大名である後藤寿庵が私財を投じて胆沢川の水を引く用水堰の開削に尽力し、イエズス会・宣教師アンジェリスをして「アラビアの砂漠の如し」と言わしめた胆沢平野の開墾に大きな功績を残した。
元和7年(1621年)、奥羽信徒17名の筆頭として署名し、前年のローマ教皇パウルス5世の教書への返事を送った。
徳川家光の代になってキリスト教の禁止が厳しくなり、伊達政宗も取り締まりを命ぜられた。政宗は、有能な家臣である寿庵を惜しみ、布教をしない・宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとした。しかし寿庵はこの条件を拒み、南部藩に逃亡したとも、秋田藩に渡って果てたとも伝えられる。
寛永8年、寿安の意志を受け継いだ、関村(現・前沢区)の千田左馬と、目呂木村(現・前沢区)の遠藤大学の指導の元、およそ17キロメートル分の工事が進められ、寿安堰が完成した。
大正3年(1923年)、治水の功により従五位が贈られた。昭和6年(1931年)には彼の館跡に寿庵廟堂が建てられ、毎年9月11日に寿庵祭が行なわれている。
昭和26年(1951年)、宮城県登米市(東和町米川西上沢)で後藤寿庵の墓が発見されている。